小田原かまぼこ通りと北条氏ゆかりの神社コース
小田原かまぼこ通り周辺は、漁業で栄えた漁師町で、大漁を祈願するお祭りが盛大に行われている地域です。かまぼこを食べて、のんびり散策できるコースです。
徒歩 ▼ 15分
国道一号線から一本南側(海側)に位置するかまぼこ通りは、その名もかまぼこ店が点在し、干物屋、鰹節屋、飲食店など、歩きながら、もしくは自転車で寄り道しながら散策するのにとても楽しい通りです。歩きながら食べられる練り物を販売しているかまぼこ店や小田原おでんを食べられるおでん屋もあります。
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第23区魚がしの山車小屋
小田原のお祭り
例年、小田原の4つの神社では、5月3日~5日にかけて、例大祭を行っています。なかでも、小田原宿総鎮守となる松原神社例大祭は、神輿や山車の数が多く、市内を木遣りという唄と掛け声で民家や商店、神社などに走る様は、とても迫力があります。
その山車の一つである、「第23区魚がし」の山車小屋は、かまぼこ通り沿いにあり、ガラス張りになっているので、実際の山車をいつでも見ることができます。
山車小屋の壁面にある看板には、この辺りの地域についての歴史やお祭りの様子や、小田原かまぼこ通りで行われている活動が詳しく載っています。
徒歩▼2分
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波模様がついた三ッ鱗の家紋
かまぼこ通りの海側に、ひっそり佇む千度小路(せんどこうじ)龍宮神社(りゅうぐうじんじゃ)に、海の守り神、龍神様が奉られています。そのお社の御扉には、北条氏に認められていた証である三ッ鱗の家紋に、漁師たちの功績を称えた波の模様が入って納められています。千度小路の漁師たちは、ここで大漁や安全を願い、海に出ていたということです。
徒歩▼13分
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小新宿地区の海の守り神
八代龍神
天正18年(西暦1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの時、加藤清正の家臣、可児才蔵の統率する熊本の八代水軍の船が、小田原に上陸中、台風による激浪で古新宿の浜辺に大破して打ち上げられました。
この水軍は、有明海の不知火の光を恐れて八代の龍宮様から御神体を奉授し、船神様として船の親柱の元に納められていたものを、破船の中から引出し、古新宿の祠に安置して龍宮社として祭ったものが八代龍神の縁起とされています。
尚、その水軍で働いていた船頭や船子は、近海に魚群の多い小田原の海辺に定着し、代々漁業に携わり原住の漁師と共に集落を作りました。
八代龍神は昔から、海の神様として漁師の信仰が厚く、船元の子供は朝晩必ず社内にある大きな輪型の蝋燭立てに明りを上げることを日課として行われ、その光は四六時中光々として輝き、絶えることがなかったといいます。
徒歩▼2分
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北條稲荷神社は元々城内にあったそうですが、現在は、この山王口近くに移されています。
蛙石(かわずいし)
小田原に異変があるときには、必ず鳴き声を発すると言い伝えられている。こちらも元々は城内にあったということです。
北條稲荷神社にまつわる言い伝え
北条三代氏康公が、夏の夕涼みをしていると、狐の鳴き声を聞いた。そこで、氏康公は、「夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ」と即興の歌を詠んだ。(夏はきつねが鳴く時期ではなく、蝉の鳴く季節であるという意味で、季節外れの狐を茶化した歌という)
その翌日、昨晩狐が鳴いていた場所で、一匹の老狐が死んでいた。
その後まもなく、氏康公の家臣に狐の霊が憑き、
「氏康公の歌によって命を落とした。この恨みは深い。この後必ず身辺に災いが起こるだろう」と叫んだ。
そして、その翌年に氏康公が亡くなったため、これは老狐の祟りと恐れ、四代氏政公が、狐の霊を鎮めるため、場内に北條稲荷の社を建て供養したというのが、この北條稲荷の起源だと言い伝えられています。
徒歩▼30分
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